お寺の休憩室で知っている女性と会いました。
話をしているとほかの人も参加して話が盛り上がり、ほかの人たちは元気?という話しになりました。
その中で一人の女性の名前が出まして、
「彼女、昨年の秋に亡くなったのよ」と言ったので
「え!」と知らなかった人たちで驚くと
「がんだって。体調がよくなくて病院に行ったら・・もう遅かったらしいのよ」
私より一回り以上若い。
そして今ここで話をしている人たちよりもずっと若い。
いやいや・・
おかしいでしょう・・
すごく頑張っていた人なのに。
ありえない、
おかしい、
おかしいわよ・・
いや・・・・・・
いや・・
え…死んだ?
彼女がどれだけ泣いて苦しんだのかしら・・
まさか自分が、と思ったと思うし、
なんで自分がとも思っただろうし、
どうしてこんな目にあうの?と怒りもこみ上げただろうし、
病名を知って、短い期間ですべてを受け入れることなんてできなかっただろうし・・
人生は短い、とまた実感しましたよ。
今までなら葬儀があったし、
ものすごい実感で我が身に置き換えたりすることがありましたが、コロナの時代、家族葬がほとんど。
いつ死ぬかわからないともっと思わないと。
そのためにしておくことは何なのかをしっかりしておかないと。
私だって急に体調が崩れて、病院に行って、余命僅かなことを言われたら、
なんで?
どうして?
どうしたらいいの?
と悩んでしまうかもしれないので、
今のうちにきちんと心の整理をしておかないといけないと思いました。
外を歩いていて、
たまに外のベンチを見つけると、
寒いながらも座って、
お尻の冷たさを感じながら空を見上げた時、
入院中のお年寄り達が
「シーツが冷たい」とよく言ってたのを思い出して。
そうよね…
起毛のシーツで寝たいわよね…と思うたびにあの世へ近い人が「寒い、寒い」と言う声が寂しかったわよね…と思い出したり…
空が高いわ・・・
ベンチから見える高齢者の歩く姿を自分の未来と重ね、
「私もいずれあの様になるのだから」と受け入れる心を静かに受け止めたり、
自分の手のひらや甲を見て、シミができたかどうか日差しを当ててみたり・・
年を取ることは毎年誕生日が来るたびに訓練で受け入れられるけれど、
死はなかなか実感していませんでした。
それが身近な人の話を聞いて、とても心と体に来ましたね・・
あ…人は死ぬんだ、と。
その日はしばらくショックから来た痛みの余韻で動けなかったでした。
体に気をつけよう。
食べ物に気をつけよう。
死ぬなら…ぽっくり逝けるような病名で逝こう…
朝起きたらあの世へ到達している、という理想は変わりなく、無駄な生きた方だけはしたくないわ…と思いました。
やっぱりぽっくり寺を作りたい。